通院で撃沈

今日は通院日。前回旦那のことをちょっと話して、今度からちゃんと直す方向で頑張ろう、と、このブログもそのつもりで始めたのだが、から回ってぐちゃぐちゃになって(朝資源ごみが回収されなくてどたばたしたのもある)診察室から追い出されたようになってしまった。もう何度も死にたいと思った。私が悪くても、なら、その先どうやって進めばいいのだろうか。

今日見た「科学に佇む一行読書心」さんの本の紹介から引用

『ケアの生命倫理

平山正実 ”死ぬということは、自己または自我が、他者からも、自分の身体からも、自然からも、さらに、人によっては神からも見捨てられるという体験をもつことです。”

平山正実 ”死に直面すると人間は、真の自己と自我あるいは自己、自分の身体、他者、自然、神との「つながり」が解け、深い孤独に苦しむことになります。”

浜田正 ”老人(老年)心理学では、老年期は四つの喪失期とよばれています。心身の健康の喪失、経済的基盤の喪失、社会的つながりの喪失、そして生きる目的の喪失です。”

凄く考えてる。私は今何のために生きてるんだろう。この先はどうなるんだろう。納得するところを探しても、そんなものはないのかも。このことはまた書きたい。

とにかく、自分が一番得をする、幸せになる、楽しい、と中心に、そのためになることは何かを考えて生きていきたい、とかすかに思ってる。

週末11月18日(土)19日(日)気持ち悪い

パソコンが重すぎてなかなかここまでたどり着けない。でも書いておかなくては。

プライムに入って音楽を聴いたりしてるせいだと思う。この重さじゃプライムは継続しないな。

昨日、18日土曜。顔を合わせたくないからなるべく早く飯の支度をしよう、あとひき肉を使ってしまわなければ、と朝からせっせと鍋の支度。もしかして今日夕飯要らないとか言わないよな、と大根と人参を切ってしまったら、何時だろう、早めに起きてきた。空気嫁よ!9時半ごろじゃなかったかな。いつもは昼前ごろちゃんと空気読んで起きてきてるのに。何、粘着してるの?それとも許してほしいのか?謝らないでなあなあで終わると思っているのか?私が怒っていることを否定したいのか?気持ち悪い!!!!

で、クリーニング出すというから娘の夏の制服を頼んで、今日夕飯食べるよね?と虫が知らせたか聞いてみると飲みに行くと。もう切っちゃったよ?そういうこと「こそ」知らせろよ、私の手間が増えるだろう?その視点が全くない、自分おことしか考えてないね?この間私がてんぱってるときにメッセ必要以上によこしたときだって。

あ、そうだった、自分が構われてない、私が他のことでてんぱってるときに、ことさら注目を浴びようと面倒ごとを起こしてくるんだった、そうだそうだ、だから不思議はないのか、娘がマスクをしないと泣かしたうえマスクを全部ブチ捨ててしまったり(私も使ってるんだけど?&娘はこれから合唱コンクールで伴奏を弾くんだけど?!!)マスク捨てたのは謝らないね?私も使ってるってわかってもね?そういう怒ってしまうことってあるだろう?とか言ったね?

我が身を振り返って胸に手を当ててみろ 自分に言え

そうだよ私が指を包丁で切ってもお構いなし、飯作ってるときに話しかけるなって言ってるだろ?会社首になるかも?とか言ってきたこともあったな?私の感情が自分によってかき乱されるのが嬉しいんだなあ?いい加減にしろ?ふざけるな?心療内科に長年通ってるのは誰のせいだと思ってる??

今回はそのことではなかった。まあ、出かけてくれるのはいいし飲み会に行くのも全く構わない。ただし自分が飲み会で金を使っていることを自覚して、私が趣味に金を使っても文句言うなよ?

で、まあ、行ってくるとドア越しに行ってきたから「はい、いってらっしゃい」と快活気味に言う。先方もごく普通、こび気味。鳥肌立つ。

そう、ずっと週末、こび気味だった。気持ち悪い!!自分が悪いと思っているのなら謝れよ???謝らないで済まそうという魂胆が呪い殺したいほど憎い。そして、謝ってほしいことは天高く積み重なっている。一度も謝っていない。

と言いたいが。私に離婚してやっていける覚悟があるのか。いつもこれだ。ずっとずっと、思ってきたこと。自立していなければ人権はない。そう、20代のころから思っていたのに、あっけなく病気で仕事からはドロップアウト。本当にそうなのか?しかし娘の世話をしながら働く気力はない。9時3時の役所事務だって大変だっだもの。なら、いつか人生からドロップアウトする時を夢見て耐えてゆくしかないのか?どっちにしろ子育てが終わったら離婚なのか?私の老後の金を増やすにはどうしたらいいのか。娘に頼ることになるのか?人生からドロップアウトしたい、時々強く思うけれど、娘の生んだ子どもの背はの手伝いはしてあげたい。あやつは子を産むのだろうか……。

日曜。どうだったっけ。朝は早気味だったかな。鍋にラーメン。最初に食べてしまう。娘に声をかけても来なかったから一人で。どうだったか忘れた。夕飯、ハンバーグ。焼いておいたやつ。先に食べてしまう。娘にお父さんを呼んでという。入れ違うつもりが重なってしまった。「食べないの?」って食いたくねぇよ一緒に。謝れよ?

こんな感じ。今後どうするんだろう。

部屋にこもっていたら(今日は椅子を組み立てた)、メッセ。うぜえ。

「年末調整で今年の収入を書くんだけど教えてもらっていい?」
「私の収入はゼロだけど」
「わかった」

どういう意味?としばし考える。ゼロに決まってるじゃん?働いてもいない癖にと言いたいのか?ごくつぶしということなのか?心の底の声が出たのか?働け金使うな出ていけと言いたいのか?と頭にくるが上記返答で済んだ。

働きたいけど働けなくなったのだ。私は、もともと働きたい人なのだ。シーツをかける程度の家事もやらずに、働けとか思うなよ?私がバタバタしているときに自分のシーツが洗濯されておいてあったら、まず感謝だろう?なに怒ってるんだよふざけんな?床に置いてあったから一声かけろだと?自分が一声かけずに惨事になって私が大変な目にあったことは全部スルーして、ふざけんじゃないよ?そんなヤツがへらへらしてきて楽しく一緒に飯が食えるはずねぇだろ?

どうするのか考えなければ。その前に部屋を掃除して要らないものを売ってしまわないと、全然前に進めない。娘に生活力をつけさせなければ。あと2年でなんとかなるだろうか。

あ、あと、何かが落下するすごい音がしたから、またものに当たって八つ当たりしてんのか?と、メッセでもむかついたから、トイレのついでに聞いてみたら弁当準備セットが落ちたと。ああ、あれは何度か落ちていて落ちやすいけど、電子レンジを乱暴に使ったら落ちるからそのせいか?それは八つ当たりなのか?

認知療法で、相手の言ってないことを悪く創造して考えてはいけないってのあったな。

何かを誰かを恨みに思ってそれを忘れないと、その本人自体の幸せ度が下がってしまう、ってのもあったな。いい結果になりたい。今週の水曜は心療内科だからそれまでに考えておきたかったんだけど。

心療内科は、父親の話が落ち着いて、先週やっと旦那のk十を切り出せた。次回からちゃんと相談できるかもしれない、しなきゃ、と気負ってこのブログを始めたんだけど、間にあわないかなあ。なら、いつなら間に合うんだろう。

11月3日前後

 前回のこれまでの経緯は軽すぎたな。あの10倍は欠けるけど、おいおい追加してゆきたい。

今回のことはどこから書こう。

少し前からのことになるが、夕飯の支度で困っていた。支度していなければ怒る、あれば「ダイエットしてるって言っただろ?!」と怒鳴る、帰宅するなり子どもの残したラーメンをすすりながら「飯の支度するなって言っただろう?!!」と言われたことも。

夕飯は本当にどうしたらいいのかわからない。かといって要るのかどうか連絡してもらうのは勘弁である。LINEで何度かトラブルになったが、私は短いメッセを即時的にやりとりするというのがモノスゴク苦手で、しかも怒りのコントロールのために一呼吸置こうと頑張ってるのに、即時的なメッセージのやり取りなんかしたら努力が台無しなのだ。まあ、ぶっちゃけ、やりとりは避けたい。LINEは一度怒ってしまい封印してくださいとお願いした。

ただ、iPhoneのメッセージのやり取りはある。料金がかかるのが抑止力になるかと期待している。

ええと話がずれた。だから、先方が「飯が要るかどうか連絡する」と言い出さない限り、こちらからは言いたくない。言ってこないってことはやりたくないのだろう。事情もあるのかも。だから、それはいいのだが、作っていいのかどうかわからない。

どうもダイエットはやめたようで、ああ、一度、2か月に2キロ痩せちゃった!と自分をえらい心配していたが、私が1週間で7キロ痩せて飯を買いに行くもの大変でシニソウになってたのは放っておいたくせに開いた口が塞がらない。

また話がずれた。どうもダイエットは終わったかやめたか、とにかくやっていないようだし、用意していないと怒ることだ増えたし、「要るかどうかわからないから食べなかったら捨てることになるがそれでもいいか?」と聞き了承を得ているのでなるべく作る(残す)ようにしている。でも子どもが全部食べちゃったり、たくさん残すとやっぱり怒られたり(ドケチなので)、私も料理が下手だったりして上手くいかない。

それに、ご飯のことが手っ取り早いが、とにかく八つ当たりしたい怒りたいだけだったり、自分の気分次第で帰宅後に私に接するので、私はもう怒鳴られると怖いし「何かアラはないか?」と怖い顔でキッチンをギラギラした目でチェックして回ったり、どうでもいいようなことで怒られたりするのにおびえて、旦那が返ってくると自室で息を殺して電気も消して、何も聞こえない言い訳にヘッドホンで音楽を聴いて引き籠っているのだ。

やっと前説明が終わった、やれやれ!

ということで私はそ知らぬふりを決め込んでいるが、実際にそれでなかったことになるわけではなく、まあバレバレであり、旦那からすれば「俺を無視している」ということに違いない。

ヘッドフォン技はキッチンで料理しているときも使ったりする。私はバラエティが苦手なので、旦那が居間で見ているときは辛いからヘッドフォンで音楽や声優ラジオを聴いているんだ。で、話しかけられて気づかず(これは素で気づかなかったりするが)、イヤフォンを片方外して「は?なんか言った?」とやることがある。

やっとたどり着いた。これを、旦那の方がやったのだ、いつかな。10月末か11月頭、11月3日からの三連休の前。私が、

「ご飯とうどん、どっちがいい?」

と、居間でTVを見ていた旦那に結構大きな声で言った。TVの音で聞こえないかと思ったからだ。聞こえないはずはない声で言った。が、完全無視された。私は一体何が怒ったのか理解できず、もう一度、さらに大きな声で言ってみた。すると、旦那は、私が声を張り上げているのと反対側の耳からイヤフォンを取って見せて、「なに?(イヤフォンで聞こえなかった)」という動作をしたのだ。驚くべきことには、私側の耳には、何も入っていなかったというのに!

これに私はブチギレてしまった。聞こえないわけがない、なぜ無視するのかと言っても、旦那はとぼけ顔で聞こえないで押し通す。何度言っても無理。意味が分からない。

こういうところがあるのだ、今までも何度もあった、後で過去ログに追加しておこう。これは普段の私への意趣返しだろう。普段聞こえないふりをしている私への。なんというか、いつだって仕返しを忘れない人なのだ。

まあ、私はカンカンであるが、11月3日(祝)~5日(日)の3日間、旦那が自分の実家に帰ることになっており(直前に言われて、動物病院と矯正歯科に行って欲しかったので困った)、私が同行しないということもあったので、3日の朝は玄関に出て行ってらっしゃいと言いましたよ?

そして。5日、あと30分で買えると5時ごろ連絡。いや、6時から矯正歯科だし。こんな夕飯的にややこしい時間に帰るコールされて飯どうするんだ、と言ったら終わった後外で食べるって何言ってるんだよ、矯正の後は痛いし、時間が2時間かかる(8時過ぎる)こともあるし、明日は普通に学校で5時起きなんだよ、と思ってるのは隠してソフトに連絡したつもりだが何度か連絡が来て、メッセのやり取りが嫌いな私はイライラし、(家出るところだったし、金曜に家を出る時に事故りそうだった運転下手)、最後には寝室の床にシーツが置いてあったがどういうことだ、と。

少し嫌な予感はした。メッセではわからなかった。が、家に帰ると、自分の思い通りに事が運ばないことでカンカンになった気持ちがここにぶつけられていた。

シーツは、旦那が家を空けるから今がチャンスと洗ったのだ、布団カバーもシーツも全部洗った。最近ずっと天気が悪くて洗えなかったし。

私は、シーツを掛けるのがとても苦手で、かつ、腱鞘炎で指と腕が痛い。

子どもは、シーツを掛けるのは別に苦にならないから掛けてあげるよ、と言う。

が、子どもが掛けるのを忘れ、シーツの山はベッドの横の床の上に置いてあったのだ。旦那はそれが気に入らないと、なぜ、床に置いてあるのか、と怒鳴ってくる。だって、ベッドのマットレスにスプレーをかけて、扇風機で風を送って乾かしていたから。

なら、床に置くとなぜ一言声を掛けない?!と。

へ……?床って言っても、この間敷いたばかりのマットの上だし。床であまりいい気はしないのだとしても、声掛けるっつったって、子どもがカバー掛けるって言ってたのを忘れてるし。扇風機掛けてたし。これ、丸ごとあんたのためにやってあげたことだし。前、シーツが臭いって怒られてるし(なぜおやぢ臭で私が怒られなきゃならないのか釈然とはしないが。あ、寝室は別ね)。

そしてさらに私の怒りに油を注いだのは、今まで、一言掛けてくれればいいのに?ということで、何度も、家事が惨事になっているということだ。そしてその一番最近はつい数日前、油のかかってしまったシートを洗面器につけて置いたら、そのまま普通の洗濯物と一緒に表れて油まみれにしたことである。

一言聞いてくれないかな、勝手にやるな

なお、この件に関しては、大変申し訳ありませんでした、と謝りつつひとこと掛けてくれればというのはこの件もだよ、と持ち出して、口下手な私の喋りはヘロヘロだったけど、まあ、

旦那は謝りません 私は平謝りです

その後私は怒りまくっているのだが、旦那は相変わらず謝らずに丸く収めようとしている、私が悪者です。いつもなあなあになりますが、私はすべてをずっと怒っています。

そこで、ブログを作って記録をしていくことにしました。それがこのブログです。ちょっと日本語おかしいね後で直しますよ。 

鬱病発症から現在に至るまでの、夫婦が壊れた長い長い軌跡

何から記録するべきか……。

もう、少し日にちが経ってしまった。まずい。思い出そう。

まず。現在は、2017年11月10日である。そこからか。もう忘れちゃったなー。

1999年:結婚

2001年:出産。ギリ35歳。

2005年?:鬱病発症。このころ、実家の倒産と金策、フルタイムSEと育児の両立、無認可保育所から認可保育園へ入るための奔走、旦那の海外出張での孤独育児(実母は亡し)などでキャパを超えた。死にたい死にたいと言うようになる。診断は典型的な鬱病抗うつ剤治療開始。保育園入園資格のために鬱でも仕事は続け、12月に入園申し込みした後1か月で起き上がれなくなり仕事を辞める(派遣SE)。

2007~2008年?子どもが小学校入学か2年かそのあたり。鬱が治らないし症状が変化してきたが、診察時間が5分で話を聞いてもらえず転院、躁鬱その他色々言われて荒れ、陽転して病状は最悪に。診断が本当に辛く、地獄に落ちたように3日苦しみ荒れた後、旦那に病院について行って欲しいとひたすらお願いすると「そんな気持ちはなくなった」と言われて冷戦突入。3日程度で見捨てられたことに足元が音を立てて崩れてゆくような大変な衝撃を受ける。人生で一番辛かった出来事、地獄の始まり。鬱病の時には迷惑をかけないように頑張っていたつもりだし旦那のことは思いやっていたが、ここで見捨てられたことにより気持ちの転機を迎える。大量に飲んでいた抗うつ剤を突然やめたため、めまい・シャンビリなどの離脱症状が凄くふらふらに。ウイダーインゼリしか飲めず、切れると死ぬ思いで運転して買いに。1週間であっという間に7キロ痩せ、35kgになり、死ぬかも知れないと思う。この後栄養不足による全身の吹き出物に1年ほど苦しめられ皮膚科に通う。縫物が得意なのに娘の水着に名札を縫い付けるのがどうしてもできず、そんな自分自身に呆然とし泣きながら夜中の3時までかかって震える手でつけたのを覚えている。その様子を、何かをしてくれるどころか、気味の悪いものを見るような目つきで見られていたのも覚えている。会話はなく、私が具合が悪いのを見ると不機嫌になるばかり。お互いに怒っているか不機嫌でいる。

とにかく昔から私が具合が悪いと不機嫌になる人だった。自分の方が具合が悪い!と張り合ってくる。反対に自分が具合が悪いときは最大限看病され甘やかされたい人である。私は看病タイプではないので昔からすれ違いはあった。ただ、私はかいがいしく看病するタイプではないが、自分が病気の時にも看病されたいタイプでない。放っておいてくれて構わないタイプ。ただし、こんなに地獄に落ちるような苦しいときにはやはり別で頼りたかった。地獄の淵で落ちぬよう必死でぶら下がっている指先を足で踏まれたような、地獄に蹴り落されたような気分だった。キリスト教の「病めるときも健やかな時も…」のフレーズが空しく響くよ。

その後、この2つ目の病院はダメだと半年で転院することになる。

この2つ目の病院で荒れた後、半年くらいしてから離婚を切り出されたと思うのだが、転院前か後か不明。転院後の主治医に「離婚して行くところがなければ母子寮に入るしかない、ただ、そこの子供はいじめられることもある」と言われているから後かな。「子どもは手放したくないが、調べたが親権は諦めるしかない、出て行って欲しい、もしくは自分が出ていく」と言われた。実家に頼れない私がこの状態で子連れで出て行って生きていけると思うのか。診断時に見捨てられ、また子供と一緒に本格的に見捨てられたわけだ。大声で罵り合う喧嘩を何度もする。必死になって公営住宅を探したりする。働かなければ、と、役所の定額給付金のバイトに申し込んで少し働く。この体調で離婚して子供を抱えて普通に生きてゆくのは無理だと思い(実家は破産していてこっちが頼られるような状況)、この後、離婚つまり生存を脅かされる恐怖と闘いながら生きてゆくことになる。これは2017年現在の今でもおびえ続けている。私の不安の根底にある。全てかどうかはわからないけれど。

いつか不明だが、義妹に病院について行っていないことをなじられた旦那が、怒りながら「行けばいいんだろ!!」と酷く乱暴な態度で病院へついてきたことがある。一緒にいて消え入りたいようなとても辛い気持ちだった。電車だったのも悪かった。年配の主治医(80歳)に対する態度も乱暴で、「カウンセリングすれば治るんだろう?!」と、しない予定だったカウンセリング予定(別の先生)を無理やり入れる。このことが本当に辛く主治医にも申し訳なく具合が悪化、半年ほど居間のひじ掛けソファの上から動けず寝たり起きたりな生活になる。病院にも行けず。

全く話していない時期は年単位だと思う。1~3年だろうか、毎週イオンに行っていたのはいつのころか。旦那はイオンが大好きで、なぜか週末には家族でイオンに行ってフードコートでご飯を食べることになっていた。私は体が本当に辛く、話すこともできずイオンに行くと毎回耳がおかしくなったし身体もうまく動かなかった。そう訴えても不機嫌になるばかりで取り合ってもらえず行くしかない。支度に時間が掛かると蔑まれた。外に出るのが怖かったので、3時間くらいかけて心で泣きながら支度をしていた。自分でもこの支度の時間はどうかと思うがどうにもならない。私抜きで行ってほしいがその願いもかなわない。耳は、ネットで調べると耳管開放症という症状に当たった。主治医に訴えても取り合ってもらえなかった。でも、私の耳はイオンで歩いていると途端に耳管が開きゴーゴーと耳の中で風が鳴り始めるのだ。これはその後しばらく続き、今は治っている。完全にストレスだったと思う。

小学校の行事にはほとんど参加できず、PTAをなぜやらない?と責められても怒鳴られても精神的な病だとも言えず、旦那が「体調が悪くて無理だ」と言ってくれるわけもなく全く無関心、PTAを受けられないことで「みんなが私を責めている、やるべきことを果たしていない私は本当に最低だ」と苦しみ反対に「だって仕方がないでしょう!!」と攻撃的になったりして(すべて心の中で)また1年ほど苦しむ。そして、次の年のPTAの電話が掛かってくる……。

いつだろうか。もちろん死ぬことはいつも考えていたが、私は子どものために生きなければならぬ。生きるためにはどうするか。方便というものもある。激しい喧嘩に疲れてまったく口を利かなくなり、同じ部屋で同じ空気を吸うのも無理になり、居間に掃除以外で足を踏み入れられなくなってから何年だろう。2~3年?私は頑張ることにした。心にぱっくりと口を開いた傷口から真っ赤な血をどくどくと流しながら、地獄の崖から這い上がる努力をしながら、それらを見せることのないよう細心の注意を払いながら、会社から帰ってきた旦那に普通を装い言った。

「今日、風がすごく強いね!」

先方は心底驚いた顔をしている。こんな言葉を投げかけられるのは久しぶりだから。そして、ぎこちないながらも少し会話をした。頑張った、私は頑張った。主治医にも報告して「それは、いいね」と言われた。少し会話をすることもある、ようになった。だが、旦那はとてつもなく強くえらい人になった。白いものを黒と押し通したり、当たり散らしたり、ダブルバインド的なことを言って来たり、高圧的になったりである。

それから月日は流れ、何年も経て、小学生だった子どもも高校生である。その後夫婦はどうなったかって、まだ仲は悪い。向こうは私が悪かったと言って誤って丸く収まるのを望んでいるんじゃないかと思う。その後もね。私はどう思っているかって、一度も謝られたことはないし、一瞬でも許したことはないし、ずっと、苦しみ続けているし、生存権は脅かされ続けてるし、

 絶 対 に 許 さ な い