鬱病発症から現在に至るまでの、夫婦が壊れた長い長い軌跡

何から記録するべきか……。

もう、少し日にちが経ってしまった。まずい。思い出そう。

まず。現在は、2017年11月10日である。そこからか。もう忘れちゃったなー。

1999年:結婚

2001年:出産。ギリ35歳。

2005年?:鬱病発症。このころ、実家の倒産と金策、フルタイムSEと育児の両立、無認可保育所から認可保育園へ入るための奔走、旦那の海外出張での孤独育児(実母は亡し)などでキャパを超えた。死にたい死にたいと言うようになる。診断は典型的な鬱病抗うつ剤治療開始。保育園入園資格のために鬱でも仕事は続け、12月に入園申し込みした後1か月で起き上がれなくなり仕事を辞める(派遣SE)。

2007~2008年?子どもが小学校入学か2年かそのあたり。鬱が治らないし症状が変化してきたが、診察時間が5分で話を聞いてもらえず転院、躁鬱その他色々言われて荒れ、陽転して病状は最悪に。診断が本当に辛く、地獄に落ちたように3日苦しみ荒れた後、旦那に病院について行って欲しいとひたすらお願いすると「そんな気持ちはなくなった」と言われて冷戦突入。3日程度で見捨てられたことに足元が音を立てて崩れてゆくような大変な衝撃を受ける。人生で一番辛かった出来事、地獄の始まり。鬱病の時には迷惑をかけないように頑張っていたつもりだし旦那のことは思いやっていたが、ここで見捨てられたことにより気持ちの転機を迎える。大量に飲んでいた抗うつ剤を突然やめたため、めまい・シャンビリなどの離脱症状が凄くふらふらに。ウイダーインゼリしか飲めず、切れると死ぬ思いで運転して買いに。1週間であっという間に7キロ痩せ、35kgになり、死ぬかも知れないと思う。この後栄養不足による全身の吹き出物に1年ほど苦しめられ皮膚科に通う。縫物が得意なのに娘の水着に名札を縫い付けるのがどうしてもできず、そんな自分自身に呆然とし泣きながら夜中の3時までかかって震える手でつけたのを覚えている。その様子を、何かをしてくれるどころか、気味の悪いものを見るような目つきで見られていたのも覚えている。会話はなく、私が具合が悪いのを見ると不機嫌になるばかり。お互いに怒っているか不機嫌でいる。

とにかく昔から私が具合が悪いと不機嫌になる人だった。自分の方が具合が悪い!と張り合ってくる。反対に自分が具合が悪いときは最大限看病され甘やかされたい人である。私は看病タイプではないので昔からすれ違いはあった。ただ、私はかいがいしく看病するタイプではないが、自分が病気の時にも看病されたいタイプでない。放っておいてくれて構わないタイプ。ただし、こんなに地獄に落ちるような苦しいときにはやはり別で頼りたかった。地獄の淵で落ちぬよう必死でぶら下がっている指先を足で踏まれたような、地獄に蹴り落されたような気分だった。キリスト教の「病めるときも健やかな時も…」のフレーズが空しく響くよ。

その後、この2つ目の病院はダメだと半年で転院することになる。

この2つ目の病院で荒れた後、半年くらいしてから離婚を切り出されたと思うのだが、転院前か後か不明。転院後の主治医に「離婚して行くところがなければ母子寮に入るしかない、ただ、そこの子供はいじめられることもある」と言われているから後かな。「子どもは手放したくないが、調べたが親権は諦めるしかない、出て行って欲しい、もしくは自分が出ていく」と言われた。実家に頼れない私がこの状態で子連れで出て行って生きていけると思うのか。診断時に見捨てられ、また子供と一緒に本格的に見捨てられたわけだ。大声で罵り合う喧嘩を何度もする。必死になって公営住宅を探したりする。働かなければ、と、役所の定額給付金のバイトに申し込んで少し働く。この体調で離婚して子供を抱えて普通に生きてゆくのは無理だと思い(実家は破産していてこっちが頼られるような状況)、この後、離婚つまり生存を脅かされる恐怖と闘いながら生きてゆくことになる。これは2017年現在の今でもおびえ続けている。私の不安の根底にある。全てかどうかはわからないけれど。

いつか不明だが、義妹に病院について行っていないことをなじられた旦那が、怒りながら「行けばいいんだろ!!」と酷く乱暴な態度で病院へついてきたことがある。一緒にいて消え入りたいようなとても辛い気持ちだった。電車だったのも悪かった。年配の主治医(80歳)に対する態度も乱暴で、「カウンセリングすれば治るんだろう?!」と、しない予定だったカウンセリング予定(別の先生)を無理やり入れる。このことが本当に辛く主治医にも申し訳なく具合が悪化、半年ほど居間のひじ掛けソファの上から動けず寝たり起きたりな生活になる。病院にも行けず。

全く話していない時期は年単位だと思う。1~3年だろうか、毎週イオンに行っていたのはいつのころか。旦那はイオンが大好きで、なぜか週末には家族でイオンに行ってフードコートでご飯を食べることになっていた。私は体が本当に辛く、話すこともできずイオンに行くと毎回耳がおかしくなったし身体もうまく動かなかった。そう訴えても不機嫌になるばかりで取り合ってもらえず行くしかない。支度に時間が掛かると蔑まれた。外に出るのが怖かったので、3時間くらいかけて心で泣きながら支度をしていた。自分でもこの支度の時間はどうかと思うがどうにもならない。私抜きで行ってほしいがその願いもかなわない。耳は、ネットで調べると耳管開放症という症状に当たった。主治医に訴えても取り合ってもらえなかった。でも、私の耳はイオンで歩いていると途端に耳管が開きゴーゴーと耳の中で風が鳴り始めるのだ。これはその後しばらく続き、今は治っている。完全にストレスだったと思う。

小学校の行事にはほとんど参加できず、PTAをなぜやらない?と責められても怒鳴られても精神的な病だとも言えず、旦那が「体調が悪くて無理だ」と言ってくれるわけもなく全く無関心、PTAを受けられないことで「みんなが私を責めている、やるべきことを果たしていない私は本当に最低だ」と苦しみ反対に「だって仕方がないでしょう!!」と攻撃的になったりして(すべて心の中で)また1年ほど苦しむ。そして、次の年のPTAの電話が掛かってくる……。

いつだろうか。もちろん死ぬことはいつも考えていたが、私は子どものために生きなければならぬ。生きるためにはどうするか。方便というものもある。激しい喧嘩に疲れてまったく口を利かなくなり、同じ部屋で同じ空気を吸うのも無理になり、居間に掃除以外で足を踏み入れられなくなってから何年だろう。2~3年?私は頑張ることにした。心にぱっくりと口を開いた傷口から真っ赤な血をどくどくと流しながら、地獄の崖から這い上がる努力をしながら、それらを見せることのないよう細心の注意を払いながら、会社から帰ってきた旦那に普通を装い言った。

「今日、風がすごく強いね!」

先方は心底驚いた顔をしている。こんな言葉を投げかけられるのは久しぶりだから。そして、ぎこちないながらも少し会話をした。頑張った、私は頑張った。主治医にも報告して「それは、いいね」と言われた。少し会話をすることもある、ようになった。だが、旦那はとてつもなく強くえらい人になった。白いものを黒と押し通したり、当たり散らしたり、ダブルバインド的なことを言って来たり、高圧的になったりである。

それから月日は流れ、何年も経て、小学生だった子どもも高校生である。その後夫婦はどうなったかって、まだ仲は悪い。向こうは私が悪かったと言って誤って丸く収まるのを望んでいるんじゃないかと思う。その後もね。私はどう思っているかって、一度も謝られたことはないし、一瞬でも許したことはないし、ずっと、苦しみ続けているし、生存権は脅かされ続けてるし、

 絶 対 に 許 さ な い